モヤモヤ

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 世の中には理解に苦しむ行動をする男がいるもので、それに対してこちらは受け身でどうすることもできないということが多々ある。
 これはそんな場面のひとつである。

 先日訪れた堺市役所の最上階展望ロビーのトイレで小便をしていたときのことである。
 後からトイレに入って来た40代の見知らぬ男が、すぐ隣に私がいるにも関わらずなんと用を足しながら長ったらしい放屁をしたのである。出物腫れ物所嫌わず、つい出てしまった屁はしかたないが、それはまるでこのトイレ全体が彼一人だけのプライベート空間かと思わせるほど、少しもためらうこと無く、平気で屁をこきくさりやがったのだ。
 男と私、知らない者どうしの肩と肩約20センチの距離でピィ〜プゥ〜とは……。なんてふてえ野郎ではないか。とても普通の神経の持ち主ではない。
 しかも男はそんなこと屁とも思わないような顔をしている。事実、問題は屁なのだ……。
 放屁する場所をトイレの中か外かで問われればたしかに中であろうが、見ず知らずの他人の隣にいるなら少しは遠慮してやめておくというのが最低限のマナーだ。何よりもあの聴かせてやるといわんばかりの無遠慮な鳴らし方がどうも引っかかる。

 さすがの私も隣で屁をこかれただけで「おいッ、貴様ァ!」と怒鳴ったり、拳を振り上げるのも何か違う。(そもそも両手はふさがっているので振り上げられないが)
「なんやねんその音〜!」と突っ込んだり、困ったときの愛想笑いもできず、仕方がないので目も合わさないようにして無言でファスナーを閉めるだけであった。
 洗面所で手を洗いながら鏡に映る自分に問いかける。
「しょうがないよなぁ。しょうがないやろ。う〜ん……」

 展望ロビーに戻り景色を眺めた。最上階とあって見晴らしが良い場所である。そこから見える堺の街は夕陽で紅く染まりキラキラしていた。
 しかし、私の頭の中でさっきのあの男の屁の音がリフレインしている。
「しょうがないのか? あの場合、受け身でしかないのか……?」という自問がしばらくのあいだつきまとった。
 不可抗力だ。
 自然の力に人間はどうすることもできない。それを不可抗力という。あきらめるほかないのかもしれない。
 それにしてもである。屁は自然現象であるというけれど、あの長ったらしい屁が自然のものだといえるだろうか……。
 納得がいかない気持ちのまま、やはりどうすることもできないのである。
 答えは風に吹かれて誰にもつかめない。屁だけに。

 下品でくだらない投稿で本当に厭になりますね。

男の危険回避

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 エスカレーターでたまたま居合わせた前の女性がスカートを手で押さえることがある。その瞬間にこちらがあらぬ嫌疑をかけられる立場に置かれたことになる。
 見る気もないのに一瞬で容疑者だ。それも一方的にだ。考えればじつに恐ろしい。
 吉本新喜劇の島田珠代に両手を取られ、自分の胸元に巻き付け「離してよ!」と言われるようなものだ。その場合は「なんでやねん!」とドツいて突っ込めるが、それもできない。
 こんなことで濡れ衣を着せられては堪ったものではない。
 だからそんなとき私は、偶然にでも“そこ”は見ていないことを強く主張するため、素早く且つ首が痛くなるくらいまったく別の方向に顔ごと向ける。それから手には何も持っていないことを主張するためにパーにする。その後はまぎらわしい動きをせずぴたりと静止する。マネキンのように。
 笑われるかもしれないが、この状況を侮ってはいけない。
 どんな事件に巻き込まれるか分からない時代、用心に越したことはないのだ。

 それが先日の場合は、前を歩いてミニスカートを手で押さえているのが女装した男であった。
 誰が見るか!
 ショッキングピンクは見ようとして見たのではない。見えたのだ。

 結局またその話かとご指摘もあるやもしれぬ。
 いや、まったくその通りなのである。

男はカサカサとどうつきあう

 私の身の回りのことを注意して見てくれている妻には感謝している。
 いつも「ちょっと大きなってきた」と私の後頭部に出来た円形ハゲの大きさの変化を教えてくれたり、ご飯を食べているときでも「鼻水出てるで」と親切に教えてくれる。本当にありがたい。
 その妻が先日、「うわっ、顔がカサカサで皺が深くなってるで」と汚いものを見るような表情で私の顔を覗き込む。
 確かに花粉のせいかこのごろ顔のあちこちが痒いし、顔の表面を触ってみると少しカサカサしている。水彩紙でいうとあのフランスの高級水彩紙アルシュの粗目のようだ。と、何も敢えて余計に分かりづらい水彩紙にたとえることもないのだが。
 鏡で顔を見たら、どういうわけか小鼻の脇のほうれい線が自分でも笑ってしまうくらい深かった。笑うとさらに深くなっておかしな表情になってこれまた面白い。また笑うから皺はどんどん深くなる。いや、深くしている場合ではない。
「化粧水なら時々風呂上がりにつけてるけどなあ」と妻に言うと、年取ったら男も化粧水だけでは駄目だとのこと。
 それで化粧水の他に乳液やクリームなど、妻が差し出すものを次々と顔に塗りたくったら気色の悪いほどテカテカのベトベトになってしまった。どれだけ塗るねん! まるで楽屋に戻った大衆演劇の役者がたっぷりのクレンジングでドーランを落としている時のようなベトベト顔ではないか。たとえているようなたとえていないような……。
 とにかく肌を良い状態で保つためにはじゅうぶんな保湿を怠らないことらしい。
 しかし、男たるもの本当にこれでいいのか?
 男がこんなものに頼っていたら顔の皮膚が軟弱になり、毎日朝晩ベトベトせずにはいられなくなるのではないだろうか。
 正直、面倒くさいとも思うのである。
 顔の痒みや皺の深さは、花粉によって肌が荒れたせいなのだろうが、私の信条としてむやみに肌を過保護に甘やかすことなどできるわけがない。
 まさか甘やかすことで中性的になるとは思わないが、やはり他の男性陣がベトベトにしていようとも私だけは化粧水までに止まり、カサカサになり皺を深めて、独りワイルドに生きてゆこうと思うのである。

年齢

 ご高齢の人の中に「わたし何歳に見える?」と言って自慢にしようとする人がいるが、そんなどうでもいい愚問にどう答えればいいのか、問われた方は対応に困るものだ。あれは周囲の人に“お約束”を強いるものであって、気の弱い者には踏み絵を踏まされる気分になるだろう。
 世間には歳相応に見えるか見えないかを気にして自分の年齢を隠す人がいるが、年齢はその人の生きてきた時間でしかない。何も恥ずかしがって隠すことはないし、同年の人より若く見えることを殊更に自慢することもない。
 見た目がどうあろうと、年齢は単なる生きてきた時間である。基本的にはそう思っているのだが、時々それが当てはまらないような人を見かけてしまう。どうしたものだろうか……。

 先日、散歩の途中、幼稚園の近くを通ったとき、子供を自転車の後ろに乗せたまましゃべっている主婦3人の会話が耳に入ってきた。けっしてそばで聞き耳を立てていたわけではない。幼稚園の前を走る車道を挟んだ向かいの歩道を私は歩いていたのだからそれほどの大きな声で彼女たちはしゃべっていたのだ。
「嫌やわぁ、もうすぐ20代ではなくなるわぁ〜」
「そうそう、ホンマやなぁ〜」
 この言葉から二人は20代後半の主婦なのがわかる。30歳になるくらいで何を大袈裟なことを言っているのだと思った。30代がどうした。まだまだ若いではないか。
「何言うてんのぉ! わたしみたいに、ただ30代になるだけよぉ!」
 もう一人が答えた。30代の主婦のようだが、彼女の言うとおりだ。そう、それだけのことである。20代と30代の違いにいったいどんな大きな差があるというのだ。嫌になることなどあるものか。
 何気なく30代の人を見た。50代に見えた。
 その瞬間にさっきの20代の人達の気持ちが何なのかがわかった気がした。
 30代の象徴として彼女たちは目の前の“あなた”を見ていたんだと。
 私はこの場合、どちらも正しいと思った。
 困ったことに、年齢は単なる時間ではない、例外的にそういう場合があるのだ……。

マレーグマの思い出

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 今日の朝日新聞で「天王寺動物園のマレーグマが時折ロッククライミングのようなふしぎな行動をみせ、来園者の人気を集めている」という記事があった。

 私は小学6年の時、級友たちと土曜日の午後、毎週のように天王寺動物園へ行ったものだが、その時から園内の動物で強く印象に残っているのがマレーグマである。
 マレーグマは他の鈍重な熊に比べて軽快な動きで来園者に反応を示す。我々が手を挙げるとそれを見てかれらは身軽に立ち上がって手招きの仕草をする。早く食べ物をくれと言っているのだ。無論園内の動物にエサを与えてはいけないし、もとより小汚い小学生の我々がエサなど持っているわけがない。手を挙げるが何もやらないのだから、かれらに期待させるだけの、今思うと意地悪な行為だった。わるいことをしたと思う。子供のやることは無自覚に残酷だ。しかも我々は特別アホみたいな子供たちであった。面白いと思ったことはしつこく繰り返した。
 手の上げ下ろし、それだけを何度も繰り返しているとかれらは次第に苛立ってきたのか頭を掻きむしるような仕草をした。我々はそれも愉快になってきて……。(非常に反省してます)
 そんなことよりもマレーグマが強く印象に残ったのは、かれらの体つきによるところが大きい。かれらの体毛はかなり短く、毛布のように皺の寄る皮膚がなにやら着ぐるみっぽくて、見ているとまるで中に人間が入っているように思えてくるのである。そう想像するとさらにあの手招きなどの仕草が面白く感じられたのだ。
「中のおっさんが食いもんはよくれ言うてるで!」
「うわっ、中のおっさんが怒ってる〜!」
 などとアホな子供はほたえながら手の上げ下ろしを繰り返している。その様子を少しひいて見れば、その姿こそ滑稽である。マレーグマのおかしい行動と何ら変わりはない。

 ところで、今日の記事の写真ではマレーグマのふしぎな行動は進化しているようだ。中に入っているおっさんは我々が考えていたよりもう少し若いものと思われる。

呼応する現象

 いつだったか忘れたが、宇宙飛行士が人工衛星から地球を見ていて、距離をとって稲光がリズム良く光るのを見て「まるで呼応し合っているようだ」とテレビ番組で言ったのを覚えている。
 実際に地上にいる私もベランダから稲光が光る空を眺めてそう思ったことがある。何キロメートルも離れているのにまるで会話しているようだった。
 稲光とは大気に溜まった静電気の放出といった放電現象。生き物のように感じるのはおかしいだろうか。いや、万物にはリズムがあるのは周知のとおりであるし、地球を一つの大きな生命と考えても何もおかしいことではない。

 ところで、今日は中央図書館にいたのだが、私はここでも自然現象にしてはめずらしい現象を目の当たりにしたのである。稲光の放電現象に生命を感じることと似て非なる現象なのだが──。
 それまで静かだった館内。隅にいる一人のおっちゃんが大きなくしゃみを発した。するとそのとき、かなり離れたところにいるおっちゃんが待ってたとばかりに似たようなくしゃみを発したのである。すぐさまそれに続いて、しかもほとんど同時にあちこちでおっちゃんたちのくしゃみが次から次と発せられたのだ。
 そのとき私はつい考えもなく「これはいったい……! 仲間どうし?」とアホなことを思ってしまった。それくらいにうまく呼応し合っていたのである。はたしてこの現象を何と言えばいいのだろうか。原因として空調の変化と伸びた鼻毛が関係しているのだろうか……。機会をみてもう少し考察したい。

 ちなみに、とりわけ大音量を発したくしゃみの中で、友人の名前を呼びかけているように聞こえたくしゃみがあったので書いておく。
「西内! 西内……!」と二発連続のあと「石内ぃッ!!」と別の名前になった。……ま、そんな話である。

男が手を振るとき

 昼すぎ、低く重い雷鳴の後、雨が降ってきた。
 ベランダに出て遠くの空模様を眺めていると、どこかから幼い子供の「やーっ」という声が聞こえてきた。いつもよく聞く声なのである。幼い子供にすれば、自分の出す声が外に大きく響き渡るのが楽しいのだろう。
 声の聞こえる方向を探してみると、ベランダ向かいのマンション、といっても駐車場とアパートを挟んだ向こう側にある少し離れているマンションなのだが、そこの3階の通路に並ぶ玄関ドアのひとつが少し開いていて、そこから聞こえるのだった。
 そのドア付近で何やらチラチラと動くものがあるのでよく見ると、ドアの隙間からまだ3歳くらいの小さな子供が顔を覗かせ手を振っているのである。
 少し間を置いてハッとした。
 なんとあの子はおそらく7階にいる私に向けて手を振っているのだ──。
 そういえば以前、洗濯物を干しているときに向かいのマンションにいる幼い姉弟から手を振られたと妻が嬉しそうに話していたことがある。きっとその子供なのだろう。妻はそのとき手を振り返してあげたという。
 さて、私はどうするか。
 オッサンが笑顔で手を振る姿を誰も求めるはずがない、目の前の子供以外は……。
 私がここで無視してベランダから部屋の中に姿を消せば、あの子は寂しい思いをするかもしれない。世の中には冷たい大人ばかりと思わせてしまうのは罪だ。傷ついて今後一切手を振ることをしない子供になる事態もあり得る。
 やはり私はあの子にちゃんと応えるしかないのだ──。
 しかしながら、向かいのマンションはさっきも書いたようにこちらとの間に駐車場とアパートを挟んでいてそれなりの距離があるのだ。下の道にもまばらではあるが人の往来がある。どこで誰が見ているか知れない。私を見つけた人が、もし子供の存在に気付かなかったとき、オッサンが一人で手を振るのをいったいどういう目で見るのだろうか。
 そんな心配など、手を振り続ける子供の無邪気にはかなわないのであった。
 私は覚悟を決めて、隣近所に対して考えられる心配事とこっ恥ずかしい気持ちを何とか脳裏から消し去るよう自分自身をごまかし、手首だけを動かすように小さく振り返した。これが精一杯だった。
 どうやら子供は私の振る手を見届けてくれたようで、こちらに振っていた手を中に引っ込めてドアの隙間から消えた。それとほとんど同時に私もサッとすだれを捲り上げベランダから引っ込んだ。ちょっとドキドキしていた。
 あの子供はすぐに家の中にいる母親に、手を振ってくれた人がいたことを伝えているかもしれない。私が妻に「向かいのちっちゃい子供が手ぇ振ってきたからこっちも手ぇ振ったで!」と伝えているように。
 これからも「やーっ」という声が聞こえるたびに思い出すことになるだろう。

これは中ナニ病?

 今朝ネットのニュースの中に『エマニエル夫人』のシルビア・クリステル(59歳)が脳卒中で入院したという記事が目に飛び込んできた。彼女はがんも患っていて治療中だったという。
 驚いた。偶然にも昨夜『エマニエル夫人』のことを思い出していたからだ。
 風呂に浸かって有名なあの曲を鼻歌などにしながらひとり感慨に耽っていた。──女の裸を見ようと思えばDVDやネットでいくらでも見られる今となっても、あの時の中学生男子が感じた『エマニエル夫人』のエロスにはかなわないだろう……。

 中学生だった頃、同級生の男子で『エマニエル夫人』を知らない者はいなかった。過敏な年頃である。意識せずにはいられなかったのだ。開放的なセックスに目覚めた外交官夫人『エマニエル夫人』シリーズで、世界中で大ヒットした1974年のフランス映画。フランス映画といえども、芸術性なんかそんなものは中学生男子の頭にない。頭にあるのはエマニエルだったし、夫人だった。
 関西ローカルのサンテレビで、たしか大晦日の深夜に放送されたことがある。しかも続編シリーズ3作品(『エマニエル夫人』『続エマニエル夫人』『さよならエマニエル夫人』)の連続放送だった。
 このシリーズが続けざまに放送されるという情報は衝撃的だった。冬休み直前にこれを知った男子たちは狂喜乱舞した。校舎のあちこちでは勝手に作ったサンテレビ讃歌が歌われた。この冬休みのメインイベントとして天体ショー以上に盛り上がり我々は準備を整えた。
 イベントがあるといつも連んでいた友人Dともその日ばかりはお互い訪ね合わないことにした。
 ビデオがまだ普及してなかった頃だから、如何にして大晦日の夜に家族に悟られないようにひとりでテレビを見ることができるか、それが重大問題だった。男子たち各自の言いしれぬ努力と苦労があったように思われる。

 大人になってから、映画の話になった時などに「フランス映画といえば『エマニエル夫人』しか思い浮かばない」と迷わず答える男がいると、その男は私と同世代であると断言できる。またそう答えずにはいられなかった男の気持ちを理解できる。
 シルビア・クリステルさんの快復を祈る。

TP考No.2

 トイレットペーパーが新しいものに替わった。
 私が吟味して選ぶまでもなく、すでに相方が買っていたのだ。
 先日「うんつく話」で、「最近トイレットペーパーのなくなるのが早い」とか「シングルでもダブルでもかまわない」と書いた。そして読まれもしないのに製紙会社に向けて「ふわっと巻くな、それをするのは使用者の権利だ」というようなことも書いた。この際だから、さらに付け加えて書くことにする。
 最近のトイレットペーパーは軟弱化していて、やたらデリケートや優しさを謳うだけの草食系トイレットペーパーになっているのではないだろうか。ロールの角がすぐに崩れるわ、ロール芯でさえへなへなだ。なんと頼りないトイレットペーパーかと心の中ではいつも嘆いている。
 それを知ってかどうかわからないが、この度相方が買ってきたトイレットペーパーが凄いのであった。
 これがシングルもシングル、それも透けるような薄さだ。極薄である。
 私は一向にかまわない。シングルでも何でも、どんとこいだ。
 新品のロールを間近で見ると、「優しさ」を売りにする他のメーカーのトイレットペーパーとは一線を画しており、そこには優しさ重視のイメージなどはない。表面には若干のシワ加工がされているが、それは控えめで目立たない。おそらくこれ見よがしの優しさなんかは隠したいのだ。なんという奥床しさだ。
 ロールの角はしっかり立っていて、もはや頑丈な固形物である。久しぶりに姿勢の良いトイレットペーパーを見るようだ。まるで好青年のように爽やかで清々しい。これだけ硬派であればこちらも拭き甲斐があるというものだ。
 しかもこんなに薄く、そしてしっかりと巻かれていれば当然長持ちするに違いない。実際、いくら使っても減る様子がない。ロール一本が一向に無くならないのだ。今日など、いつもなら2回のところを3回も拭いた。贅沢とはこんな場合をいうのだ。
 経済的なうえ、なんとこのトイレットペーパー、お茶の香りがするという。あっぱれだ。
 ところで、いま思ったのだが、こんな話をバレンタイン・デーの時期にするものではなかった。

うんつく話

 相方に最近トイレットペーパーがなくなるのが早くないかと問われた。
 それはたぶん、今回のトイレットペーパーはダブル(二枚重ね)であり、とくに紙の間に空気を入れてふわっと軽く巻いているためだろう。そのせいで一見柔らかそうに見え、肌に優しく思えるが、紙の厚みの他に空気の層が加わるので長さは当然短くなり、したがって従来使っていたものより使い切るのが早いというわけだ。
 トイレットペーパーは、ふわっと巻いていただかなくとも結構であると製紙会社に言いたい。
 どちらかといえば、使う段になって使用者が自分なりに使い心地の良いように空気を入れながら取り扱う方がなによりだと思うのだ。
 人民の人民による人民のためのトイレットペーパーである。
 昔、子供の頃はちり紙であった。それをくしゃくしゃと揉んで紙の間に空気を入れ層をつくり、適度な柔らかさにして使っていたものだ。
 第一、トイレットペーパーなど、私はシングルでもダブルでもかまわない。自分で手に取る量を調整できるからだ。
 こんど買うときは注意して選ぼうと思う。

 ところで、余談になるが、トイレットペーパーで思い出したことがある。あまりこういう便の話ばかりするのはどうかと思うが、この際ついでなのでお許しいただきたい。

 15年くらい前だったか。中学生の頃からの友人Dと、Dの兄と三人で話していたときのことである。
 そのときも話題はなぜかトイレの話で盛り上がっていた。たしか、「ウォシュレットは必需装置だ」というような話をDの兄が展開していた。そこで私が「ウォシュレットは滅多に使用しない」と言った途端、私を見るDの兄の顔色が変わった。Dの兄にとって私の言葉は思いがけないものだったようだ。

「ええっ、寺西くんは不安やないの?」と身を乗り出すDの兄。
「え、なにが? 普通にトイレットペーパーで拭いて終わりですよ」
「へえー、それで何回ぐらい拭くん?」
「だいたい2回ですね」
 そう言うとDの兄はびっくりしたような顔になった。
「2回!? 寺西くんは大便をした後、2回って決めてるの!?」
「ええ、まあ、だいたい……」
「えええっ! そんなん、キレイになったかどうか分からんやん。ちゃんと目で見て確認せんと!」
「いやいや、そらもちろん確認してますよ!」
「それでも2回はどうなんやろう! なあサトシ、寺西くんは2回しか拭かへんねんて!」
「じゃあ、何回拭くんですか?」
「そりゃあキレイになるまでやん」
「せ、せやから、僕はそれが2回くらいなんですって!」

 心外だった。Dの兄は、もはや不潔な男を見る目である。
 もう一度書いておくが、私もちゃんと目で見て確認している。もちろんキレイになっていなければ3回目もあるし、何なら4回目もあるだろう。しかし大概の場合、2回で済むのだ。

 ここで、もうひとつ思い出したことを書こうと思う。
 高校の同級生で同じクラブの部員だったKからのおかしなアドバイスである。
 場所は学校の廊下だった。この時はトイレとまったく関係のない話をしていたにもかかわらず、Kは唐突に言い出した。
「あのなあ、テラちゃん! ウンコした後お尻拭くときは、モウして、きばりきった時に拭いたら一番キレイに拭けるねんで」
 如何にも理にかなった方法だとでも言いたげであった。
 私は一瞬言葉をなくしてしまった。おもわず「な、なんの話やねん……!」と突っ込んだ。単なる返答ではなく、素直に感じた疑問である。
 Kは日頃からトリッキーな笑い話を仕掛けるやつでもあったので、おそらくその場に脈絡のない話題を放り込んで楽しんだのだと思う。
 ただそれだけのことだったが、あれからもうすぐ30年近く経とうとしている。
 私の頭の奥深くにはKが言った言葉がある種「呪い」のように留まっていて、いまだに忘れられないで困っている。
 たとえば、「3回目」が必要になった時などに、ふとKを思い出すのである。

 今回はまったく取り留めのない汚い話に終始して申し訳ありませんでした……。